日本は財政破綻するのか②昭和金融恐慌編

資産運用

前回に引き続き、日本が破綻するのかについて考えていきたいと思います。
日本は過去何度も恐慌を経験していますが、その中で預金封鎖が起きたと、どこの誰かから聞いたことのある昭和2年の昭和金融恐慌について調べてみました。この時は日本は大丈夫だったのでしょうか。高橋亀吉氏・森垣淑氏著『昭和金融恐慌史(講談社学術文庫)』を参考にしました。この本はとても分かりやすいです!

昭和金融恐慌ですが、確かに預金封鎖は起きていることが分かりました。それは銀行に対する深刻な信用不安により取付騒ぎが起こり、それを鎮圧するために国による支払い猶予(モラトリアム)が実施されたためです。ただ、期間は3週間に限定、かつ、一日当たり当時の500円以下の払戻しには応じるといったもので、モラトリアム明けには平静に戻ったようです。なんだぁ、たいしたことないなぁと思うかもしれませんが、ここに至るまでの流れ、要所要所のイベントを追いかけていくと、これは歴史は繰り返すかもしれないと勉強になりました。

余談ですが、昭和2年時の500円ですが、日銀のサイトを参考に戦前基準の企業物価指数ベースで単純計算しますと、令和元年698.8÷昭和2年1.099=635倍となっているので、32万円弱ということになりそうです。そう考えると、企業活動はできませんが消費者サイドで考えると十分ですね。

銀行設立~戦後恐慌まで

本題に戻り上記に至るざっくりとした流れですが一言でまとめることができずですが、まず元凶の銀行は、1872年(明治5年)に国立銀行条例が制定され設立されるようになりました、がうまくいかず、1876年(明治9年)に全部改正され、華族や士族に交付された金禄公債を銀行資本にする事を認め、多くの銀行が設立されていきました。当時の銀行の性質としては、黎明期であることもあり未成熟だったようで、重役が自らの投機・事業に利用したり、事業家が片手間で副業として銀行したり、特定の企業と癒着したり、信用貸しが多かったり、放漫経営が横行していたようです。とはいえ、ちゃんとした近代化に向かった銀行もあります。ダメな銀行の方ですが、第一次世界大戦(1914年-1918年)による軍需品の輸出等から始まる戦後景気が発生し、企業の預金が増加し、銀行の資金がダブついて投機的な行動(投機に走る企業から資金需要が発生しそこに貸し出していたことも含みます)に走ってしまったようです。この時は、輸出により正貨が流入し、流通する通貨の量が膨らんでいてインフレ傾向にあったようです。ところが戦後少しすると、戦時中に抑えられていた内需が増え(戦時中は飢餓輸出的な側面があったし、輸入もできない)、輸出が減り輸入が増え、通貨の収縮が起こり、金融が逼迫し株式市場が暴落し戦後恐慌が発生しました。ここでのポイントは、この恐慌に際して、政府は投機などで不良化した財界の整理が必要な企業を救済していまい、将来に負債を延命させてしまったところにあります。

関東大震災~昭和金融恐慌の流れ

それから、追い打ちをかけるように関東大震災が起こり、企業の設備は大損害を被り、銀行は貸付金の回収が困難となり、預金者は預金を引き出そうとするなど銀行にとって資金流出が起こり、さらに割引手形についても回収困難となり、お金の流通性が著しく下がり経済が麻痺したようです。政府は流通不能となった手形を流動化させるため、震災手形割引損失補償令を出して、日銀が割引手形を再割引し流動化させました。ただ、震災手形割引損失補償令のダメなポイントが2つあり、1つ目は、震災被害が少なく後で資金を回収可能できそうな手形を選び流動化した、2つ目は、震災に関係ない政商の不良手形を再割引していた、これにより震災被害が大きく支援を受けるべき企業の破綻を招き、また、政商の不良手形の再割引による信用膨張が発生していました。これは酷いですね。

それで、震災により復興資材等の輸入需要が高まったため、および、上記の通り流動性を高めた関係で通貨の量が増えたため、為替は急激に円安になっていき財界が疲弊していきました。下図が、対ドルの為替の動きになります。

日本は第一次大戦中に他の国と同様に金本位制度の金交換を停止しており、ただ、他の国は戦後まもくなく金交換を再開し始めていました。震災による円暴落後、上海系の投機筋などにより円が不安定となり、日本としては為替の安定を課題とし、ターゲットを旧平価(100円=49.875ドル)とし金解禁すべきとの論調が強くなってきました。その流れを受けて、為替が円高に向かうことになります。ただ、金本位制度に復帰するということは、輸入が多い場合には、海外に金が流出していきどんどん貨幣の流通量が減り経済が回らなくなってしまいます。当時の日本は、統計データを見ても輸入の方が多いようです。他国との相対的に競争力のあるものがなかったものかと推定されます。

そのため、金解禁へ向けては国内経済の立て直しが必要となり、政府はその中で金融面の整理整然に着手することになりました。はい、やっと昭和金融恐慌に着きました。
ここで、日銀が割引いて未だ回収不能となっている震災手形の処理に着手することになりました。そして、上述した震災に関係ない政商の不良手形を再割引していたことが判明したわけです。それの代表的なのが台湾銀行が保有していた鈴木商店関連の手形ということになります。台湾銀行は特別法によって設立された銀行で、ここが休業すると、国内外の信用失墜につながるとして救済されてきたわけです。台湾銀行は鈴木商店の機関銀行化していました。鈴木商店は第一次大戦時の好況時に拡大していき台銀は貸付をしていました。その後、終戦による反動を受け、手持船舶は借金が残り、さらにワシントン海軍軍縮条約が採択されたりで製鋼所が打撃を受けたりで、また投機も含め貸付がどんどんと拡大、ウェイトが高まり、台銀としては鈴木商店に自行の命運を握られてしまったわけです。台銀は国として破綻させることができず、また、鈴木商店も一時は三井物産をも凌ぐ取引高を上げたくらいの会社のようなので破綻などすると経済に与える影響も大きく、延命延命で来るところまで来てしまっていたようです。そんな銀行・会社の話が明るみになり、かつ、救済せず休業にいたり、信用不安が爆発し全国的な金融恐慌が発生したという流れになります。これでも端折りましたが、これは一言では語れない歴史的な事象でした。逆に、複雑だけれでも起こるべくして起こったというイメージです。ちなみに鈴木商店は、現在の双日のルーツの一つとなっています。双日のホームページにもその歴史として記載されていますので、ご興味のある方は見ていただければと思います。

以上、昭和金融恐慌を調べてみましたが日本破綻はどうしたんだ、と思った方がいるかもしれませんが、この時日本が破綻するとかそういう話は出てきていないようです?。
この時代の債務残高GNP比率は以下の通り50%未満の水準であり、確かに構造的には為替が海外の投機筋に揺さぶられ貿易で苦戦したり、国内では関東大震災による打撃、震災手形の処理が終わっていなかったり、銀行制度未成熟による不良債権処理、国による救済などいろいろありましたが何とかなったようです。この先を調べてみて後で振り返ってみようかと思います。外債発行残高なども関係しているのかもしれません。

出典:「日本の財政関係資料(令和元年10月)」(財務省)P59抜粋
https://www.mof.go.jp/budget/fiscal_condition/related_data/panfindex.html)(2020年07月12日に利用)

ちなみに上記図ですが、第二次世界大戦で債務残高対GNP比率が200%を超える状況にあり、図にもコメントがあるように、その後ハイパーインフレ、預金封鎖、新円切替、財産税などエグイ内容が書いてあります。そして、2019年度までの急激な債務残高GDP比率の増加がまさに過去のそれと似ているなどとして、現在はいつでもハイパーインフレや預金封鎖が起きうる状況だと煽ってくる人がいます、果たしてそうなのでしょうか。次は、戦後ハイパーインフレや預金封鎖が起きた時の日本について調べてみようかと思います。

次回へ続きます!一歩一歩前へ!

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